考えが異なること、本が好き

たぶん、私はかなりマイナーな考えを持っているし、変な考え方をするので、ほとんどの人と意見が合わない。

でも、性向は温和だと思う。少なくとも過激ではない。

「自分の考えが間違っているのかなぁ~」「謙虚になったほうがいいよなぁ~」と、自分の考えを抑えて、一般的でメジャーなものに噛り付いてもみるが、しばらくすると、すぐにそのものに内包する矛盾に気づき、「やはりこれは本物ではない」「自分の考えが正しかった」と思うようになる。

「でもそれではいけないなぁ」「謙虚にならなきゃなぁ~」と思いなおし、再度、世間一般的に良しとされているものを調べてみる。

そうすると、また「やっぱ、これは本質ではない」と気づき、自分の考えに戻る。もうそれを何回繰り返してきたことか。もう疲れた。

もう最近は自分の性向と異なり不本意だが、「自分の信じる道は正しい」と無理にでも思うようにしている。

本質でないものや矛盾を抱えている事物のなかに身を置くと気持ち悪いし、居心地が悪くなる。「なんでみんな、それに気づかないんだろうか?平気なのか、気持ち悪くならないのか?」と思う。

やはり、いつまでも私は「王様の耳はロバの耳と叫ぶもの」であり、裸の王様のパレード中に「あの王様、裸だよ」言い放つ子どもであり、ライ麦畑で捕まえてのホールデンである。まぁ、それでいろいろ失敗もしてきたけれど。。。

なので、自分のヨガの修行(練習や勉強)をすすめようと思っても自分にマッチする先生が近隣にいない。ヨガのワークショップや講習会に行っても、どうせ自分の考えるヨガと違う考えを強制されるだけなんだろうなと思ってしまう。人に考え方を押し付けられるのは苦しいことだ。

ヨガの最初の出会いがヨガアワーのダレン先生であったことが、なんて奇跡なんだろうと思う。

それ以後、ヨガの勉強は誰から習うでもなく、自分でいろいろな本を読みすすめている。どの本を読んでもヨガの修行には絶対にグル(先生)が必要だと書いてある。でも、必ずしもそういった先生に出会えるわけではない。なのでそういう人はグルのなかのグルである「シヴァ(イシュワラ/自在神)(日本では観音菩薩)」を先生とせよ。となっている。なので、私の先生はとりあえずシヴァなのかな。それはわからない。

自分の考えるヨガに近い先生は日本中にたくさんいることはいる。ただ遠い!私はべつにそこまでの熱量があるわけじゃないので、そのひとが福岡に来た時、たまたま時間があれば参加しようと思う。

そういう機会が、いままで2回あった。(ただ私は高額な勉強会やWSには参加しない!)

やはり本物だなって思った。

ヨガ以外にもそういう意見がぜんぜん合わないっていう状況はいっぱいある。

だから、現実的に私の先生は「本」だ。

高額な勉強会やWSに参加するお金があれば、それ以上の学びの本を5冊は買える!

ただ、私は本を読むのが非常に遅い。まぁ、つねに5冊くらいは併読してるので、1冊読み終わるのに2か月以上かかる(汗)そのうち半分はヨガや仏教関連の本が多く、それ以外は自然科学系が多い。

注意しているのは専門に偏らないこと。たとえば、医療者が専門の医療関係の本を読んだり、教育者が教育関連の本を読むと、抽象度(いわゆるIQ)が下がり、具体度があがるので、頭が悪くなるのだ。視野が狭くなると言っていい。ぜんぜん分野の異なる本を広く読むべきだ。

どんなに分野がかけ離れた本を読んでいても全く無関係ということはなく、そこには共通性や繋がりをみつけることができる。それが抽象度があがるということだ。最終的には「縁起」「空」までだとりつく。

でも、本やネットから情報を得るときに、注意しないといけないのはかなりの割合で「クソ本」が混じっていること。

 

それを避けるには「読まなくていい本の案内」「歴史は「べき乗則」で動く」この本がオススメ。世の中は「べき乗則」「複雑系」がバックに流れているので、それらを知らないと情報に騙される。

ヨガと仏教は、数千年~数百年の時代に耐えてきたものだし、瞑想から得られた智慧なのでわりと安心していいと思う。

ちょっとわけわからんブログを書いてしまった💦たぶん消します。