ポーズに拘らず練習する

  

私は練習会のたびにみなさんにポーズなんて気にしなくていい。うまい下手なんて気にしなくていいといってます。

「解剖学的にはなんちゃら~」とか「アライメント的にはなんちゃら~」なんてこともあまり言いません。「やってもいいし、やらなくてもいい」「テキトーでいい」と言ってます。

ポーズなんてそのうち、自分の体のおさまるところにおさまるさ。と楽観的。

ともすると、ヨガ、とくにアーサナ(ポーズ)の練習は練習の臨みかた、心の持ち方によっては「執着」を強めてしまいます。

本来、ヨガの目指す方向はその逆で、「執着」を手放す方向、「執着」を弱める方向にむいていかなきゃならない。

えー、いいじゃんか!その「執着」や「拘り」こそが、発展や成長の原動力、モチベーションになんじゃん!そしてそういう発展が人類を幸福にしてきたんじゃん!って思うかもしれない。

そういう拘りが、芸術家や職人の創造性を豊かにし、さらにより良いものを求めるエネルギーになってきた。

自分の子供には、成長への飽くなき欲求、探求、モチベーションを持たせて、たくさん勉強させていい大学に入れて、いい職業に就かせる。それが一番の幸せの道じゃんか!って思うかもしれない。

まぁ、でもそれは奴隷への道やけどね。国際金融資本家の(笑)

(本来、子供には、人間は自分自身の王様、支配者にならなければならないと教えるべきなのだが…)

漫画ドクターストーンの千空や龍水は「ぜんぶ欲しい!」とか「欲しいは正義!」と言っています。人間の強い執着である欲望が文明を発展させてきました。それもある意味事実だし、正しいでしょう。ただ、それは束の間の幸せです。物質の満足や地位名声は儚く失われていくもの。ジョブスさんのipodに最後に残った本からもそれはわかります(彼のipadに唯一最後に残ったのは「あるヨギの自叙伝」)。

仏教やヨガでは幸せに対する考えは異なります。それは、幸せになるためには苦をとりのぞかなければならないといいます。そして苦の原因となるのが「執着」なんです。つまり、不幸の原因は執着ですよーってこと。

西洋文明は幸せを自分の外側に求めますが、東洋思想では幸せは自分の内側に求めます。西洋は「小麦が欲しい!」「お金が欲しい!」「スポーツで金メダルをとりたい!」「社長になりたい!」など地位や名声、欲しいものを手に入れることで、心の平安を得ようとします。

ですが、結局、この方法は行き止まりとなってます。なぜなら、欲しいものを手にしたあとの満足には際限がないからです。終わりのない不満足。不満足の連鎖、これを仏教では「苦」といいます。この真理はいにしえの天才達が突き詰めて発見した事実なので本当です。

反対に、東洋ではすでに自分自身の中に最初から平安はあると考えます。ただ、曇ってみえないだけ。気づかないだけ。そして、その曇った霧を取り除いたり暗くて見えないものに光をあてるのがヨガや仏教というわけです。もうすでに私たちは満ち足りていて、ただそれに気づいてないだけ。欲望の霧がかかってるからね(笑)

ヨガの練習をつづけていくと、雲間から月の薄明かりがみえるように、ときどきその平安の光が顔をみせます。練習のあとのシャバーサナです。それが、とりあえず一番わかりやすい例かな。呼吸してるだけで平安(シャーンティ)じゃないですか?ただ居るだけで丸儲けって感じしません?(笑)

今日わたし、家のまわりを10分くらい走ったんですけど、片脚をまえに出すときに、なんの抵抗もなく脚の後ろについている筋肉が脚がまえにでることの邪魔をせず、スムーズに快適に前にでたんですよー♪そのちょっとした(体が自由に動くことの)快適さに平安を感じたんですよー、バカでしょー(笑)それって幸せじゃないですかー?(笑)

なので、話を戻しますが、ヨガであんまりポーズの上達にこだわりすぎると執着が強くなって、幸せから遠ざかっちゃいます。そして生きづらくなっちゃいます。「これでいいのだ!反対の賛成なのだって」ってバカボンのパパくらいの気持ちで丁度いい。ええ加減でいい。

「じゃぁ、ヨガの練習会にきて私は何を頑張ればいいのよ!」ってなると思います。

だから、私がいつもいうように、「練習をする」という行為そのものを頑張ればいいんです。その練習から得られる効果だとか、結果だとかは気にしなくて大丈夫。だから、もう、仕事が終わって、教室に入ってきて、マットを敷いて、座った時点でヨガの目標は達成されているわけです✨合格です♪

だから、
・ポーズが上手になりたい!
・私だけ硬くてヘタクソだ!
・みんなちゃんとできてるのに私だけできてない!
・あのポーズもこのポーズもできるようになりたい!
・ほら!私ってこのポーズもあのポーズもできるよの!ほらほら、みんな見てー見てー!上手でしょー♬

なんて思う必要はありません。ポーズの品評会じゃないんだから。

硬くて結構。できなくて結構。

できないポーズが多いってことは、まだ教材(ゴールにたどり着くための手段)がたくさん残ってるってことです。逆に、すでにほとんどのポーズができてしまったひとは、残り少ない教材でゴールにたどり着かなければなりません。

たとえば、体の柔らかい人は、簡単にパスチモッターナーサナ(前屈のポーズ)ができるので、このポーズが教材とならない。逆に、体が硬いひとはパスチモッターナーサナでさえ良い教材となり、そのポーズから精妙な感覚を受け取ることができる。教材が多い人は恵まれており、逆に教材が少ない人は可哀そうだとも言えます。

ヨシッ、わかったら、れんしゅう、れんしゅうー♪